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大学案内

中庭 ヒストリカル・ガーデン

花園大学の中庭は、本学ならではの歴史的・文化的モニュメントを配し、独特の景観を呈する一種の歴史庭園です。



地蔵堂「花地蔵」

地蔵堂「花地蔵」

2009年7月27日に本学無聖館前の庭園内に地蔵堂は建立されました。堂内には本尊延命地蔵尊、お堂の周囲には13体の石仏が安座。建立時には、「地蔵菩薩開眼法要」が、阿部元学長導師のもと執り行われました。法要に先立ち、阿部元学長が、地蔵菩薩安置の趣旨を述べられ、芳井教授が、地域社会に根付き、受け継がれる「地蔵盆」について説明、「地蔵盆に参加され、体験されることにより、日本の伝統的な宗教精神に触れていただければ」と開催の趣旨を解説した後、「般若心経」の書かれた団扇が配られ、全員で心経を 唱和しました。法要の後は、地蔵盆の行事が行われました。
地蔵盆は、これ以降本学の恒例行事となっています。

地蔵盆

「お地蔵さん」(地蔵堂建立の趣旨説明 花園大学通信2009年11月vol3.より)

このたび、新学科の先生方や学生さんから地蔵盆をとのお話があった。そこでお手伝いの話がまとまり、地蔵盆には地蔵尊、地蔵尊には地蔵堂と言うことで、中庭の片隅に小さな祠と、本尊延命地蔵尊、石仏を安座した。

禅の理念はともすると具体性を忘れがちである。「捉われのない心」も、ともすると宗教的なあり方や社会性をも侵すかと想われるほど危うさがある。これは卑近な行事であって崇高な禅思想にはそぐわないとの声もあるかもしれないが、禅学の庭に招いたのである。

ひと昔前、師匠と田舎の道を歩いていた時のことである。

小道の曲がりっぱなで出くわした子供に「お地蔵さん!」と手を合わせられたことがある。

津々浦々で誰もが素直に手を合わせるお地蔵さん。まさに、この大地、生きとし生けるものの救いとしての菩薩行の精神の具体化である。どこにでも現れいつでもそばにいて手を差しのべる、六道能化地蔵願王菩薩。それは私たち自身のこと。お互いのこと。信じ合い、認め合い、受け入れ合い、いたわり合う時だれもがこの仏となり、願いの主となる。一人ひとりが地の底から湧き出ずる菩薩となって生きるのである。だれもが決して独りきりではなく、だれをも独りにはさせないという願いなのである。単なる京都の一風俗ではなく、地蔵盆を通して、身近に禅仏教の誓願を感じるのである。

私の長い話はさておき、皆さんが素直に手を合わせ合い、「おはよう」「こんにちは」と挨拶し合うことから理想の世界は始まるのである。
(花園大学学長 阿部 浩三)※所属・役職等は当時

「地蔵盆」について

地蔵盆は、お地蔵さんの縁日にあたる24日と盆の8月(旧暦7月)に、近畿地方を中心におこなわれる「町」の行事です。その源流は、地蔵信仰が起因する「地蔵講」と言われ、それがいつしか祭礼化され「地蔵祭」、「地蔵盆」と変化し、今日にいたります。その名のとおりお地蔵さんをお祀りするのですが、そのほとんどが路地に鎮座しているお地蔵さんが対象となり、かねてより京の町には地蔵堂がいたる所に安置されていました。明治時代に入ると地蔵堂撤去命令が布告されましたが、現在でもその名残をとどめています。

地蔵盆の主役は子どもたちであり、喜田川守貞の『守貞謾稿』に「児童等集テ、或ハ戯レ、或ハ百万遍ヲ唱へナドス。」とあるように子どもの行事でした。現在でも、京都の各町内からは子どもたちの元気な声があちらこちらから聞こえてきます。それは、お地蔵さんと子どもの関係が深く、全国各地の民話やわらべ唄が示すように子どもの守り神として信仰されてきたからです。

京都に住む人にとって地蔵盆は、京都三大祭同様、大切に育まれてきた行事と言えます。
(文化遺産学科共同研究室助手 伊ヶ崎 鷹彦)


水琴窟(枯山水)

水琴窟(枯山水)

阿部浩三元学長老師の発願により、中庭の校歌碑前に学生有志の協力を得て、2008年5月25日創立記念日にあわせてつくられました。舟形の水鉢から溢れ落ちる水が澄んだ音色を奏でています。


上山2号墳石槨

上山2号墳石槨

奈良県平群町上山2号墳 横口式石槨

奈良県平群町下垣内にあった古墳である。同古墳が立地した廿日山と呼ばれる丘陵が、宅地開発を受けることとなり、1989(平成元)年11月から2年4ヶ月かけて平群町教育委員会によって発掘調査が実施された。本古墳は、平面形が台形状の方墳(南辺幅10メートル、北辺幅7メートル、奥行9メートル)である。東側と北側には堀割がよく残っていた。

埋葬施設は、南に開口する横口式石槨で花崗岩系の石材からなる。床面に厚さ0.2メートルの板石が敷いてあることが特徴的であり、石槨は長さ2メートル、幅1メートル、高さ0.7メートル、羨道は長さ3メートル、幅1メートルに復元できる。

撹乱のため副葬品などはほとんど残っていなかったが、撹乱土中から出土した須恵器片には石槨の構造から推測できる7世紀中ごろの年代に合致するものがある。平群谷の古墳の変遷、ひいては飛鳥時代の古墳を考える上で貴重な存在である。

これも伊達宗泰元教授と地元平群町教育委員会などの尽力により、1990年4月30日と5月1日に本学構内に移築復元された。(村社仁史「大和における飛鳥時代古墳の一例-上山2号墳の発掘調査から-」『花園史学』第11号、1990年)


高家B-1古墳石室

高家B-1古墳石室

奈良県桜井市高家(たいえ)B-1号墳横穴式石室

奈良県桜井市高家にあった古墳時代後期の群集墳(100基の横穴式石室墳からなると推定)のうちの1基で、B地区の1号墳に構築された横穴式石室である。本古墳は1993(平成5)年度、奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査を実施した。古墳が造られた場所は、飛鳥の宮都が営まれた地域に近く、それとの関連が推定される貴重な遺跡である。

1号墳は6世紀末に築造された直径約10メートルの円墳で、石室内から多くの土器、大刀などを出土した。石室は左片袖式(左右は奥壁から羨道を向いた場合の表現)、全長7.00メートル。玄室長3.46メートルを測る(奈良県立橿原考古学研究所『奈良県遺跡調査概報』1994年度、1995年)。玄室内には石を敷いた棺台が用意されている。

本古墳の石室は、本学に在籍した伊達宗泰元教授が、調査後の1994年5月上旬に構内に移築・復元したものである。

花園大学文学部文化遺産学科では実物資料を使った文化遺産の授業を多く実施しており、この2古墳も考古学実習などの授業の教材として活用され、同時に遺跡保護の精神の涵養にも役立っている。


三代目雪江松

三代目雪江松

無聖館前の中庭に一本の松が植えてあります。それは本学の開学120周年の年、妙心寺に伝わる雪江松より根分けして植樹したと伝えられています。この雪江松については古い歴史と深い意味があります。『臨済録』の「行録あんろく」に、この因縁話が出ています。
師、松をうる次いで、黄檗おうばく問う、「深山裏に許多そこばくを栽えて、什麼なにをかん。」師云く、「一つには、山門のために境致とし、二つには、後人の与に標榜ひょうぼうと作さん。」おわって钁頭かくとうって地を打つこと三下。
-あるとき、臨済禅師は一生懸命松を栽えています。そこへ、のこのことやって来た師の黄檗禅師が、「どうした!こんな深山幽谷の松や杉が一杯繁っている所で、わざわざ松の苗を栽えてどうするのか」と質します。臨済、答えます。「一つには山門の境地とする、すなわち将来この木がどんどん大きくなって、いよいよ修行道場にふさわしい幽邃な境地とするために。二つには後人の標榜とする、すなわち、二百年、三百年後、大樹となった松が人々の目印しとなるために」と言い終わって、その鍬を持って地を打すこと三下-トン、トン、トンと三回大地を叩きます-
この「臨済栽松」の因縁を踏まえて妙心寺の境内には、法の永遠を願って松が沢山あります。しかも南門を入って三門、仏殿、法堂はっとう、大方丈と続く伽藍の周囲には、見事に松の木以外の樹木は一本もありません。
さて、無相大師によって建武4年(1337)に妙心寺が建立されます。二世授翁宗弼じゅおう そうひつ、三世無因宗因むいん そういん……そして八世義天玄紹ぎてん げんしょう禅師と苦難の時代が続きます。応仁元年(1467)に応仁の乱が起こりますが、都が焼け野原となったあと、妙心寺住持雪江宗深せっこう そうしん禅師によって妙心寺発展の基礎が作られました。その門下に、景川宗隆けいせん そうりゅう/龍泉りょうせん派、悟渓宗頓ごけい そうとん/東海派、特芳禅傑とくほう ぜんけつ/霊雲派、東陽英朝とうよう えいちょう/聖澤しょうたく派の四哲があり、この四派がのちに発展し、開山の関山かんざん一派の禅が諸国へ伝播され、遠く琉球までもひろまっていったのです。雪江禅師は仏法の興隆を念じて仏殿東、経蔵の西北に一本の松を植樹します。
以来「雪江松」として大切に保護され、五百年余りも「松樹しょうじゅ千年のみどり」をたたえてきた名木でした。周囲十六尺、高さ十三間、幹根蟠居し枝葉繁茂した見事な古松だったと言い伝えられています。しかし昭和に入り少しずつ弱り、昭和4年についに枯死するにいたるのです。その顛末が「雪江禅師四百五十年遠諱おんき大法会記録」に述べられています。
亭々ていてい中天をして五百年の緑をたたへて来たが、大正の末年に至ってとみにその勢いを失ひ、上半身が次第に枯れ初め、昭和3年頃、中半身が又枯れ出し、当局苦心の手当も甲斐なく同4年には次第に最下部に及び、所々青葉が点綴てんてつするのみで殆ど枯木同然となり、同年12月21日前管長玲竹軒老大師導師の下に冬至祝聖後、本所執事並一山総出頭、大悲咒・消災咒を諷経ふぎんして伐採した。
惜雪江松(雪江の松を惜しむ)
十尺青松元寸岑(十尺の青松、元と寸岑) 
多年培養霊根深(多年培養して、霊根深し)
雪霜五百樹齢尽(雪霜五百、樹齢尽くるも) 
老祖宗風無古今(老祖の宗風、古今無し)
  喝
その後、山内の衡梅院様等で実生みしょうの松が成長します。時代を経て、開学120周年の折、三代目の孫松が根分けして本学に植樹されたのです。それが本学の「三代目雪江松」です。本山の孫松が平成11年に枯死し、今の「雪江松」は微妙殿落慶の折、三笠宮殿下お手植えの曽孫の松です。因みに三門と仏殿との間にある四本の松は「四派の松」といわれ、四本庵(龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖澤院)を意味しています。この松は代々一株から二本の幹がのびている樹が植えられ今日を迎えています。(細川 景一)

初代雪江松
初代雪江松 大正13年初秋

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