禅仏教教育センター

臨済宗とは

中国唐代末の禅僧、臨済義玄(?~867)が説示した教法と、その実践を臨済禅という。禅とは、もともと瞑想を意味する古代インド語を、漢字で音写したものであるが、釈迦牟尼仏陀が坐禅によって自覚した、根元的人間性を意味する。それを仏心とも表現するのであるが、この仏心を自覚し、日常生活の中に実践究明してゆくことを禅という。

この教法は、仏陀より28伝して、インド僧、菩提達磨によって中国に伝えられる。

当時の中国仏教は、経典の講釈と戒律を実践することが主流であって仏陀の正覚に直参し、安心の眼を開くことに希薄であった。この状況の中で、達磨は、文字言説を仲立ちとせず、仏心を直接相手の心に伝えることを主張し、人がいま起こしている心を直接指摘して、その心こそ他ならぬ仏心であることを標榜した。これは、禅の宗旨をよく特徴づけるものである。

膨大な仏陀の説かれた教えは、仏陀の仏心から発露したものであるから、もとの仏心を自覚することが肝要な事でなければならない。だから坐禅を修道の基本とする禅宗は、仏心を宗旨とし、これに直参するので「仏心宗」ともいい、「禅は仏教の総府」と言われる所以である。

達磨より六伝して大鑑慧能(638~713)に至って、中国民の実際的民族性と相まって、中国独自の禅が大成する。この慧能禅の流れから、曹洞宗、臨済宗など五つの流派が現れる。慧能下六世の臨済は、「外に向かう意識を内に向け、何ものの助けをもかりずに、自ら明らかに輝いている根元的人間性を自覚して、その光で相手に照り返すなら、君たちはそのまま仏陀と変わらない存在なのだ」と説く。

「この根元的人間性に立脚しているならば、何処にいても、そこが真実の場所となり、たとえ無間地獄に落ちるような罪があっても、そこが解放の大海となる」と主張する。

何ものにも執着することのない「無住」こそ、臨済が自覚をすすめる根元的人間性であって、「悟り」にすら安住することを臨済はきらう。安住し、執着すれば、そこが束縛となって自由を失うからである。

このように「独脱無依」の人間性の自覚から、真に自由な人生を創造してゆくことを、臨済禅は宗旨とする。曹洞禅が、坐禅を悟りの修道の手段とせず、悟りの姿そのものの坐禅に、ひたすら徹するのに対し、臨済禅は、先人の開悟時の機縁・問答を坐禅して参究し、それを日常底において究明する。

12世紀後半から、13世紀初頭にかけて、曹洞宗の一流のほか、24流の臨済禅が宋時代の中国から日本に伝えられた。24流のうち日本に現存するのは、臨済下十八世の南浦紹明(1235~1308)が伝来し、紹明下十九世の白隠慧鶴 (1685~1768)によって中興された一流のみが、その命脈を保っている。江戸期(16世紀初)に隠元隆琦(1592~1673)によって伝来された流派は、黄檗宗を名のるが、南浦と同じ流派の臨済禅である。

真理は言語、文字表現を超えているもので、その心の真理は、師の心から弟子の心へ、直接心から心に伝えられるものである。だから、禅宗では、その系譜が重んじられるのである。

禅の日本伝来は、当然ながら、中国の近世文化の伝来をも伴うもので、文学・美術・建築・食品など日常生活にわたって、日本文化の発展に大きな寄与をした。

特に、臨済禅は、単なる技術を心の修道に昇華させて、茶道・華道・書道・武道・絵画・庭園などの日本独自の生活文化形態を創造した。そして、今日も庶民の中に生きつづけていることは、注目に価することである。

これは、臨済禅の目指すところが、平凡な日常の著衣喫飯事が、そのまま坐禅修道であり、人間の生活行為のすべてに真実を見るものである。

因に、「古都京都の文化財」として、ユネスコに一括登録された世界文化遺産の17物件のうち、5件(西芳<苔>寺・天龍寺・鹿苑<金閣>寺・慈照<銀閣>寺・龍安寺)は臨済宗寺院である。

花園天皇について

花園天皇は、1297(永仁5)年7月25日、持明院統の伏見天皇の第二子としてお生まれになり、12才にして第九十五代の天皇に即位された。諱(名前)は富仁、青年の頃から健康に恵まれず、その故に専ら絵画・書籍の観賞や読書研究に努められた。

天皇在位10年を経た22才で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位して、自ら上皇となられた。時あたかも皇室と北条・足利両政権をめぐる激動の時代にあって、政治に関与することなく、ひたすら精神生活に沈潜された。

39才で天台の円観慧鎮僧都について剃髪得度(出家)、法名を遍行といい花園法皇と尊称するようになった。

天皇は元々、天台・真言の教理に造詔が深く、研究に余念が無かったが、宗派にこだわらずに僧をたびたび招いて仏法を熱心に学ばれた。皇位を譲られた頃から更に求道心が強くなられたという。

法皇24才の砌、妙暁上人(後に梅津・長福寺住職になられた月林道皎)との出会いを契機に、ひたすら禅宗に心をよせられるようになった。

妙暁上人のすすめにより、26才にして法皇が生涯の師と仰ぐことになる宗峰妙超禅師(大徳寺開山・大灯国師)に引見され、以降、法義を聴聞するなかでますます禅に傾斜され、禅の修行に打ち込まれるようになった。

ある雪の日に、聴法のため大徳寺に向かおうとされた法皇を、健康を案じた家臣が引き止めようとした時、「火の中をわけてさえ聞く法の道、雨風雪はもののかずかは」と詠まれ、断固として志を変えられなかったと言う。

法皇の求道心の深さを伺うことができよう。法皇、大灯国師に参じて13年後の39才にして大悟された。1337(建武4)年、健康がすぐれず病床にあられた大灯国師の元に、法皇が使者を遣わし「師亡きあと、私は何人に参禅すればよいのか」と指示を仰がれた。

師は、「今、行方は知れないが自分の弟子に関山慧玄あり、慧玄を法皇参禅の師とされてはいかが」と推挙された。

大灯国師没後、美濃の伊深の山里に隠れて、悟後の修行(悟りの後の修行)を続けておられた関山慧玄禅師の元に、特使を遣わして、「大灯国師のご遺言により、これからは貴方を聴法の師となし、自分の居所である花園の御所を禅寺に改めて、ご開山としてお迎えしたい」旨伝えられた。

再三にわたり固辞された慧玄禅師も、師匠である大灯国師のご遺言とあってついに応諾され、都に上がることを決意された。

1348(貞和4)年11月11日、法皇52才の生涯を閉じられるまで、関山慧玄禅師を聴法の師として師遵された。

ここに、花園法皇を開基とし、綸旨をもって関山慧玄禅師を開山とする、正法山妙心禅寺の開創が定まった。

まさに、妙心寺の歴史は、花園法皇お一人の発願によって始まったと言える。

花園天皇には、14才から36才に至る22年間の行状や、ご自分の身辺の様子を極めて繊細に記した日記「花園院宸記」があり、法皇の純真で理知的・内省的な人柄をしのぶことができる。

妙心寺について

京都は洛西の地、右京区花園妙心寺町に甍を連ねる妙心寺は、山号を正法・寺号を妙心と言い、正しくは正法山妙心寺と称する。

この妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山であり、1237(延元2)年、開基・花園天皇のご発願により、関山慧玄(無相大師)を開山として1338~1342(暦応年中)年、花園離宮を禅寺にあらため開創された。

以来、臨済宗14派の中の一派にあって、応・灯・関一流の禅(大応国師・大灯国師・関山慧玄無相大師へとその禅風を継承してきた)と称され、今日に至るまで650有余年にわたりその法灯をかかげ、全国3500の妙心寺派下寺院の中枢として位置している。

寺内13万坪といわれる惣門に入れば、松樹につつまれた七堂伽藍の厳然たるたたずまいがあり、格調高い輪奐の美は、まさに無双の禅刹と讃えられ、46ヵ院の山内寺院は本山とともに史跡名勝地に指定され、蔵される古文書及び絵画等の文化財は著しい数にのぼり、わが国の禅の渕叢であるとともに、禅文化の一大宝庫でもある。

開山・無相大師は、求道の人々に対して「汝等請ウ其ノ本ヲ努メヨ・・・誤ッテ葉ヲ摘ミ枝ヲ尋ヌルコトナクンバ好シ」(皆々、根本である自己究明に精進せよ、間違っても世間の騒音に惑わされたり、枝葉末節の事象に因われてはならないぞ)との遺誡を残し、後人を戒めている。

妙心寺は、学校法人花園学園の設立母体であり、臨済禅の教義と開山無相大師の意思は、「花園大学の建学の精神」の基幹として、今なお脈々として生きずいている。