人権教育研究センター

第28回花園大学人権週間 講演1

中北龍太郎さん紹介文
【プロフィール】
なかきた・りゅうたろう
弁護士。1947年生まれ。76年、大阪弁護士会に弁護士登録。弁護士として人権問題やえん罪事件などにとりくむとともに、平和・憲法を守る市民運動を展開している。狭山事件再審弁護団の事務局長も務める。著書に『憲法を活かす―市民の人権を守る裁判から』(日本評論社)、『今こそ平和憲法を守れ』(明石書店)など。

 「部落差別にもとづく冤罪事件・狭山」
八木 晃介 

 私が二冊目の単著として『差別と冤罪の構造』(たいまつ社)を出版したのは一九七六年、三十二歳になったばかりの頃でした。この本で取り扱った冤罪事件は、私自身が雪冤闘争にそれなりに主体的にかかわった三件です。第一は、部落差別を利用した「狭山事件」、第二は同性愛者差別と部落差別を二重に利用した「東京・富士高校放火事件」、第三は精神障害者差別を利用した「静岡・島田事件」です。
 このうち、富士高校放火事件は一九七五年に東京地裁で無罪判決が言い渡され、さらに控訴審でも東京高裁が一九七八年に同様の判決を出し無罪が確定しましたが、実は検察が控訴する前に、弁護士は真犯人を割り出しており、その事実を告げても検察は控訴を強行するありさまでした。無罪を勝ち取るにいたるまでの百瀬和夫弁護士の努力は偉大なものであり、ささやかながら百瀬弁護士に協力できたことを私はいまでも誇りに思っています。
 島田事件は、一九五四年三月に静岡県島田市で発生した幼女誘拐殺人・死体遺棄事件です。冤罪被害者は軽い知的障害のある赤堀政夫さん。一九八六年五月、静岡地裁は第四次再審請求を棄却したが、抗告審の東京高裁は再審開始を決定し、審理を静岡地裁に差し戻しました。一九八九年七月、再審の静岡地裁は無罪判決を出し検察は控訴を断念、逮捕から三十五年弱、死刑判決確定から三十年弱しての無罪確定でした。無実無罪の人が誤認逮捕・起訴され、死刑判決の確定後、再審で無罪判決を受けた事例は免田事件、財田川事件、松山事件に続いて四件目でした。
 さて、私がかかわってきた冤罪事件で、まだ雪冤できない事件、それどころか雪冤のための再審開始をさえかちとれていないのが狭山事件です。私もそうですが、部落解放同盟も一審段階では、この事件が部落差別と関連する事件だとは知りませんでした。ですから、すべては東京高裁での控訴審以後の取り組みになります。
 私は、毎日新聞東京学芸部の記者時代に何度も狭山へ足を運びました。一人で現地調査をしたことも数回ありますし、東京部落解放研究会(現東日本部落解放研究所)や新日本文学会の仲間と一緒にでかけたこともあります。また、東京女子大解放研の学生を引率したこともありました。しかし、一九七七年に大阪学芸部に転勤してからは、距離と時間がネックになって足遠になってしまい、その後は二〇〇九年に花園大人権研センターで狭山をフィールドワークするまで全然狭山に行けませんでした。それでも花園大人権週間に石川一雄さんと中山武敏弁護士(狭山事件主任弁護人)を招いたりはしました。
 事件の発生は一九六三年五月一日。埼玉県狭山市内の、川越高校入間川分校一年生・中田善枝さんは三時半ころ自転車で学校を出た後、ガード下で誰かと待ち合わせているようなところを目撃されたのを最後に行方不明。この日は善枝さんの16歳の誕生日で、家族は赤飯を炊いて善枝さんの帰りを待っていました。だが六時を過ぎても善枝さんが帰ってこないので、心配になった長男が学校へ出向き善枝さんのことを尋ねたが、生徒は全員下校しているとのこと。仕方なく長男は引き返し、自宅に七時半頃到着、善枝さんは帰っていなかった。心配しながら家族で夕飯をとっていた七時四〇分ころ、長男が玄関のガラス戸に挟んである白い封筒を発見。それが脅迫状でした。長男帰宅後わずか十分の間に、外の様子のみえ易いガラス戸に何者かが、ということでしょうか。
 脅迫状には「刑札にはなすな。(略)子供死出死まう」とありましたが、そのわずか十五分後には長男が警察に届けました。翌夜、被害者の姉が指定されたところに金(警察がつくった偽札)をもっていくが、警察は、張り込みを察知され逃走されるという大失態を演じました。これが冤罪づくりのすべての出発点でした。
 翌三日、警察犬で足跡を捜査、犬が匂いを見失った付近に石田養豚場があり、警察は早い段階でこの養豚場に出入りする被差別部落の人々に目をつけはじめました。その翌日の四日、善枝さんの死体発見。雑木林に通じる農道に埋められており、その穴の深さは一メートル弱で、善枝さんはうつぶせで、両手を手ぬぐいで後ろ手に縛られ、目には手ぬぐいで目隠しがされてあったといいます。この死体の取り扱いも被害者と加害者とのある種の関係性を想像させますが、ここではふれません。
 事件から約三週間後の五月二十三日、被差別部落の青年、石川一雄さんがケンカと窃盗の別件で逮捕されました。血液型はB型、事件の三ヶ月前まで石田養豚場に勤めており、石川さんとその家族が住んでいる被差別部落は遺体発見現場のすぐ近くでした。この年から数えて今年で五十一年の歳月が流れたことになります。
 いわゆる“三大物証(鞄・万年筆・腕時計)”についての根底的な疑惑はいうにおよばず二〇〇六年の第三次再審請求に発端する裁判官・検察官・弁護士による三者協議(二〇〇九年九月の第一回から十数回開かれた)によって新たに百数十点の証拠が開示されたことからして(その証拠の内容は刑訴法二八一条によって一般には明らかにされていませんが)、私としては初めて再審開始の決定が近づいているのではないかと期待するのですが、実際には楽観はできません。石川さんと弁護団は、なにも即座の無罪判決を要求しているのではなく、審理をやり直せと要求しているに過ぎないのですが、仮に再審がおこなわれ、事件の実質審理がはじまればこの冤罪事件が「部落差別を利用した権力犯罪」であることが満天下に暴露される可能性が高いので、やはり再審の壁は相当に高いといわざるをえません。検察側が証拠を小出しにしか開示しないのもそのためでしょうし、裁判官にしても再審を認めるということは、部落差別に加担した先輩裁判官(確定判決は東京高裁・寺尾判決)を批判することになるので、それも裁判官文化からすると、なかなか容易ではなかろうと、私は想像します。
 石川さんは一九九四年に仮出獄し、以後、娑婆の生活を送っていますが、どこまでも“仮出獄”なので、石川さんの手には見えない手錠がかけられているわけです。部落解放同盟狭山中央闘争本部の元事務局長・西岡智元中央執行委員(元花園大非常勤講師)はかつて私に、「狭山闘争があったればこそ、部落解放運動は根底的な堕落をまぬがれることができた」と言っていました。確かに部落解放同盟はさまざまな不祥事をかかえてはきましたが、決定的な腐敗堕落をおしとどめてきたのがこの狭山闘争だったという指摘は正鵠を射ていると思います。狭山闘争に勝利しても、何もモノをとれるわけではなく、石川さんをとりもどせるだけのことです。正義にかなった倫理的な闘いともいうことができるでしょう。

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 人権週間でお話しをしていただく中北龍太郎弁護士は、狭山事件弁護団の事務局長をながくつとめ、石川さんの雪冤のために奮闘努力されている方です。今回の講演では、部落差別と狭山事件との関係を中心にお話しいただきますが、いわゆる“三大物証(鞄・万年筆・時計)”が石川さんの自白にもとづいて発見されたという従来の警察・検察のストーリーがなりたたず、いずれも“秘密の暴露”が崩壊している状況、さらに検察側が小出しにしている証拠の開示によって再審状況がどう展開するか等をふくむ今後の展望などをくわしくお聞きできるのではないかと期待しています。
 なお、中北弁護士はほかに「とめよう改憲!おおさかネットワーク」共同代表、「関西共同行動」代表などをつとめ、護憲の市民運動にも積極的に参加しておられます。著書に『憲法を活かす-市民の人権を守る裁判から』(日本評論社)、『今こそ平和憲法を守れ』(明石書店)などがあります。

(やぎ・こうすけ=人権研センター前所長・社会福祉学部教授)

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