人権教育研究センター

第26回花園大学人権週間 講演3

「中通りの人として」

遠藤 駿

 「中通りの人としてしかものは言えません。ほかの地域の人たちのことは実感できない。でも、中通りの人としてなら話せます。」そう前置きされた阿部泰宏氏。阿部さんの口より流れ出た言葉は、阿部さんが現在も住む福島市の様子、さらには中通りの抑圧された現状を、私たちの前に映し出した。
 阿部さんは、福島市内にある映画館、フォーラム福島の支配人である。福島に生まれ育ち、東京の大学を卒業された後、福島に戻った。そして当時立ち上がったばかりの、市民出資型の映画館・フォーラム福島へと就職した。以来二十七年間、今はスクリーンを六つ持つ映画館の支配人として勤めておられる。十数年前にシネコンが進出してきた際も、原発事故が起こった後の今でも。そして原発事故からいままで、原発や放射能に関連する映画―たとえば原発から出る放射性廃棄物を題材にしたマイケル・マドセン監督『100000年後の安全』や、チェルノブイリ原発事故で強制移住区域となった農村の暮らしを追った本橋成一監督『ナージャの村』など―多数を上映されている。
 三・一一と題される東日本大震災、そしてその後の原発事故。その発生から一年、そして二年経とうかというところであるが、未だ収束の気配はない。だが、そうであるのに新聞の紙面やニュースからは原発事故や復興に関する話題はどんどん減っていく。
 「原発事故の一連の問題は、忘れてはいけないし、常に意識の上においておかなくてはいけない問題です。そして、原発事故は、どの街にも当てはまる問題の根っこを持っています。」阿部さんは語る。今最も恐れていることは、原発事故、問題を、忘れられてゆくことであると。
 原発事故の被害を受けた街、そのように聞くとどのようなイメージを持ってしまうだろうか。黒くよどんだ雰囲気に包まれた街なのか。誰もいなくなった街であろうか。
 実際は、普通に生活しているのである。放射能、という異常なものを受け入れて。否、心の底に押し込んで、押し込められて、生活している。
 子供連れの家族、土や水と関連する農業、林業、漁業といった第一次産業の人たちは敏感に察知して外に避難していった。避難区域の人たちも避難してゆくが、福島市は避難区域ではない―放射線管理区域になりうるホットスポットは探せば出てくるのに。例えるに、ある、雨どいの下のじめっとしたところを線量計で測ったことがある。四〇マイクロシーベルトはかれる測定器が、値を振り切った。
 二つの地元紙、福島民報と福島民友新聞の一面。そこには毎日原発事故、あるいは放射能に関連することが記載される。中を開けばずらりと並ぶ数字の一覧表。株価の紙面ではない。それはすべて放射線量の測定結果。また、食品の放射性セシウムの摂取ついて書かれた記事など。TVをつければ天気予報の前後には今日の線量予報。
 「でも、(危険を)いわなくちゃいけないけど言えないんです。…このマインドが中通りです。」
 そこには、裏づけのない「よくわからないけれど、大丈夫なんじゃないのか」という無責任な物言いが存在する。「いざ、という非常事態が起こったとき、私たちは白、黒、という判断はできないものです。そのときには、グレーゾーンでしか生きられない。」
 映画を見ていると、どうしても一見関係のない映画も、自分たちの状況に照らして見てしまう。例えば映画『マトリックス』。主人公であるネオ(トーマス)が迫られた、このまま日常に違和感を持つ仮想空間で生きるか、それとも現実の世界に目覚めるかという選択。ある登場人物の「これは嘘の快楽だ」といった言葉。どうしても今の自分にぴったり来てしまう。
 「いい映画は、普遍的な、すべての問題に通じるメッセージを持っていると僕は思っています―。」
 原発事故から一年を過ぎ、中の現状も変わりつつある。一つに、昨年六月からフォーラム福島での「映画から原発を考える」という企画は十数回を過ぎたが、当初より人が減少・固定化されてきた。阿部さんが見るに、「ここ(福島)から出るか、残るか」の判断を決めた人たちが大半を占めるようになってきたからではないか、と。
 ここまでの記述は八月の末に阿部さんにインタビューを行った際のものであったが、そのインタビューの最後に、私にとって印象的なことがあった。インタビューを始めて二時間経た阿部さんの表情が、幾ばくか明るくなっていたのだ。「日ごろ溜め込んでいることすら忘れているのです。出ればハッとわれに返る。話を聞いてくださるあなた方は、セラピストのようなものです。」
 「グレーゾーン」の現状は、ひとことでは伝えきることができない。そして私も力及ばずながら、ここに書き付けたことは、阿部さんが言っている事の本質を、半分も捉えることができていないのではと思っている。しかし、あらゆる問題はこのグレーゾーンの現状から発せられている以上、知ることが重要である。事は単純ではない。だからこそ、私たちは直接に耳で、身体で、その現状を聴き、問題の根底にあるものは何なのかを見極めようとしてゆくことが必要である。岐路に立たされている私たちは、ここがスタートラインなのではなかろうか。

(えんどう・しゅん=国際禅学科二回生)

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