日本文学科

『花園大学国文学会会報』 VOL.24(2003(平成15)年 6月 1日発行)

編集・発行 花園大学国文学会

「現代文化コースについて」 現代文化コース主任 浅子 逸男(本学教授)

昨年、発足した現代文化コースも、今年は講読の授業を開始して、マンガ、映画・映像、ミステリーの授業が本格化しました。従来の 近代文学研究に相当するコマもきわめてコンテンポラリーな装いをとげ、私たちの周辺にある文化事象の解読に役立つカリキュラムに変容しています。ただ、こうした変化にしても、「いま」の 「それ」「それ」だけを見るのではなく、日本の産業構造が変わってきたことと、メディアが単一のものではなく、まさにメディアミックスとしての戦略となっていることを解読していかなければ、大学で 4年間も勉強する意味がないと思います。あるいは、なぜ海外で日本のアニメが受け入れられるのかという問題を例にとってみると、感性の部分での理解はもちろんですが、市場原理から流通機構、それに関係 する法律の問題などからの分析もしなければならないわけです。
さて、私たちの感受性というものは、ひとつのものだけから受けて育っているわけではありません。とりわけスピード感は、実生活の行動 における速度の変化とともに、映像やリズムなどの影響が大きいはずです。しかも、それが小説の文体や場面展開などに反映してくるので、身のまわ りの表層にあるものすべてが考察の対象になってきます。ミステリーの場合、ポスト・モダニズム以降の作品は、まさに書かれるべくして書かれた作品 だと言えますから、物語がいかに解体され再構築されたか、そしてそれ以前の作品とどのように異なっているかなど、興味深い課題がいくらでも出てきます。しかも、これもまた、「いま」の「それ」だけを見ていくというのではなく、通時的に捉えなければ研究にはなりません。そしてそのことによって研究がスリリングで面白いものになることは間違いありません。

「なぜ大学でマンガを学ぶのか?」 吉村 和真(本学非常勤講師)

「なぜ勉強しなくちゃいけないの?」と問われたら、皆さんはどう答えますか。
高校生だったら、有名大学に進学するため。大学生だったら、希望する職に就くため。あるいは、教育は国民の義務だからとか、教養 をつけて厚みのある人間になるため、といったところでしょうか。もちろんこれらは大事ですし、世間的にも必要なことです。でも、もっと単純明快な答 えがあります。それは、「知りたいことがあるから」です。
そのシンプルな答えをほとんど唯一の動機にしてきたのが、マンガ評論・研究でした。というのも、マンガを勉強するには当然マンガを読むわけですが、マンガを読むことは、従来、良い成績を修めるにも有名大学に進むにも好ましくない行為とされ、国民の義務どころか学校や家庭で は時に禁止され、教養なんかとは縁遠いとみなされてきたからです。ところが、人目を気にせず、または隠れてマンガを読み集める快楽や興奮を体 感し、そこから生じる様々な欲望・疑問に身を寄せようとする人々がいました。誰に強制されるわけでも何の制度に保証されるわけでもなく、ただ自分 が知りたいから、大切だと思うから、そうする。マンガの評論や収集は、そんな人たちによって受け継がれてきたのです。
ところが、近年、卒論のテーマにマンガやアニメを選ぶ大学生も増え、本学のように、マンガを扱う講義や教員も現れてきました。すると、「大学のカリキュラムにあるから」という新種のマンガを勉強する動機が発生します。これが良いのか悪いのか、結果を問うのはもちろん早計に 過ぎますが、いずれにしても、当事者は、現代文化コースに所属する私であり皆さんです。そう思うと責任も感じますが、それ以上に楽しみでもあります。
なぜマンガと大学はこれまで縁遠い関係にあったのか?それがどうして接近することになったのか?はたしてマンガ以外の 「勉強の敵」もこれから大学にやってくるのか?いや、そもそも現代文化コースは何のために新設されたのか?
「決まりごと」が決まってしまう前にこそ、「知りたいこと」を見つける大きなチャンスがころがっています。いまはその時です。ここはひとつ、一緒に「なぜ大学でマンガを学ぶのか」考えてみませんか。

「ごあいさつ」 岩松 正洋(本学非常勤講師)

今年 2月、パリ第四大学の博士課程を修了しました。欧米のメタフィクションとマジックリアリズムを中心に、広義の幻想文学 (ホラー・伝奇・ファンタジーを含む)・不条理小説・SF・謎解き探偵小説などを視野に入れた理論的研究で、博士論文を提出したのです。旧来の言語学モデル一辺倒の構造主義的記号論を拡張し、言語哲学・様相論理・認知言語学・人工知能研究の成果を取り込んだ、「人間学」としての小説理論へと移行することが目的です。フランスでの出版元を探しています。また、Marie-Laure Ryan, Possible Worlds, Artificial Intelligence, and Narrative Theory (Indiana University Press) の全訳をおこないました (今年中には店頭に並ぶ予定)。
3月までの8年間、某国立大文学部で修士・卒業論文を読み、文学理論を講じていました。この春からは関西学院大学助教授(仏語担当)です。
日本文学の仕事も増えてきました。新聞・雑誌・ウェブマガジンでの新刊書評 (いままでに川村湊・高原英理・藤野千夜・清水博子・阿部和重・小川洋子・小林恭二・三浦俊彦・河野多惠子・岩井志麻子・柳広司・竹本健治・皆川博子・津原泰水・野崎六助・倉阪鬼一郎・歌野晶午・浦賀和宏・加納朋子・菅浩江・小森健太朗・黒田研二・蘇部健一・物集高音・久美沙織・田中哲弥らを取り上げました)、文庫解説や批評 (笠井潔・我孫子武丸・東野圭吾・貫井徳郎・麻耶雄嵩・殊能将之・宮部みゆき・井上 夢人など)、共著 『本格ミステリ・クロニクル』、毎年出ている『本格ミステリ・ベスト10』や『本格ミステリ これがベストだ』など。また別名で共著『無敵の俳句生活』 があり、角川書店《俳句》誌に来年から連載の予定。現在、尾崎翠を中心とする〈少女〔フィエット〕〉文学攻略本を企画中。記号学会・仏文学会・文芸学研究会会員です。よろしくお願いします。

「京都で日本映画を教えるということ」 板倉 史明(本学非常勤講師)

今年度から現代文化コースの非常勤講師を担当させていただくことになった。以下、簡単な自己紹介と、担当講座に対する抱負を書かせていただきたい。
私の専門は映画学(Film Studies)で、現在担当している二コマのうち、ひとつは日本映画における話法の変遷についての講義、もうひとつは 「移民と映画」というテーマの講義を行っている。
上記ふたつの講義内容は、現在、私が従事しているふたつの研究テーマと深く関わっている。ひとつは、私が京都に来た六年前から継続しているのだが、時代劇映画作家・伊藤大輔に関する研究である。京都府京都文化博物館には、彼の遺品・「伊藤大輔コレクション」が収蔵されており、彼の残した膨大な一次資料は、一本 の映画がいかなるプロセスを経て生まれてきたのかという生成論的な研究への道を開いてくれる。もうひとつは、昨年から開始した 「米国日系移民の日本映画受容史」に関する調査である。サンフランシスコとロサンジェルスの日系人たちが、日本映画をどこで、どのように見たのか。そして、その経験が、彼らのナショナル/エスニック・アイデン ティティの形成にどのような影響を与えたのか。そのような疑問から出発し、現在、主に日系新聞の調査と日系人への聞き取り調査を進めている (日本映画がアメリカの仏教 会ホールにおいてしばしば上映されていたことは、非常に興味深いことだ)。
京都は時代劇映画のメッカであり、京都の地場産業のひとつとして映画は大きな役割を果たしてきた。花園大学の西側には、以前、日本映画のフィルム 現像を一手に引き受けていた東洋現像所 (のちにイマジカと改称) が建っていたように、大学の周りには日本映画史の記憶がいたるところに眠っている。
日本映画史 (特に時代劇映画の歴史) を知ることは、京都の歴史を知ることでもある。学生さんたちには、私の講義を通じて、日本映画を支えてきた京都 について、もっと愛着を感じるようになってくれたら、それに優る喜びはない。

「ごあいさつ」 石田 美紀 (本学非常勤講師)

みなさん、はじめまして。
本年度、現代文化論および映像メディア論を担当する石田美紀です。どちらのクラスも受講しているみなさんは一回生がおおいと思いますが、授業を担当 するわたしの方も花園大学には今年の 4月から通いはじめたばかりです。ですから、この場をお借りして自己紹介を少ししたいと思います。
現在わたしが取り組んでいる研究テーマは、ファシスト政権下に製作されたイタリア映画です。ファシズム、全体主義の時代に撮影された映画というと、どんなイメージをもたれるでしょうか。軍国主義やムッソリーニ万歳!のプロパガンダがすぐに頭に浮かんでくると思います。しかし、わたしたちの予想を裏切って当時一番人気があ ったのは政治とは無関係のコメディー映画でした。観客を無邪気に笑わせ、時にはしんみりさせるような喜劇は、ファシスト政権下のイタリアだけでなく、ハリウッドでも、ドイツで も、そして日本でも作られていた/または作られうる映画です。当時のイタリア人たちは、政治的に厳しい現実とスクリーンのなかで展開する楽しい物語の双方を体験していたの ですが、彼らの体験とは一体どんなものであったのかを知りたいとわたしは思っています。イタリアの、それも半世紀以上も前の人々の経験を辿り直すことは容易ではありませ んが、映画産業が頂点を迎えていたこの時代に観客がどのように映画と接していたかを考えることは、映画に限らずテレビ、ゲーム、インターネットといったメディアが成熟してい る現代日本に生きるわたしたちの問題に関係するものだと思います。クラスでは直接にはファシスト政権下のイタリア映画を取り扱いませんが、メディアと受け手の問題をいつも 頭の中において講義をおこなっています。
映画をはじめさまざまな視聴覚メディアに接したとき、ひとりひとり考え、感じることができるよう、またそこから自分の関心をみつけることができるような講義にしたいと思います。一年間よろしくお願いいたします。

「書とともに」 永喜 貴子(2000年度卒)

私が花園大学の 3回生だった頃、書についてより多くより深く学びたいと考え、2001(平成13)年春に文学部国文学科書道コースを卒業後、奈良教育大学大学 院へ進学しました。
大学院では毎日が新しい発見の連続でした。一つの講義の予習に一週間費やしてもまだ足りず、朝から晩まで何冊もの辞書をひきつづけ、自分が書について いかに何も知らなかったかということを実感しました。そして学問をするとはどういうことなのか、また書がどんなに楽しく奥深いものなのかを改めて知ることができました。しかし修 士論文の執筆は困難をきわめ、研究の難しさやしんどさ、また新たな発見や面白さをも知ることができました。だから大学院を修了した今も、研究は続けていこうと考えています。
今春大学院を修了し、4月からは非常勤講師として高校の教壇に立ち、書道と国語を教えることになりました。書にかかわる仕事に就くことができたのはとても 幸運だと思います。高校での書教育に必要なことは決して専門的な知識の伝達や高度な技術の習得をさせることではなく、まず重要なのは、大学とは違い書を専門としない生徒 達にどれだけ興味関心をもたせるかということだと考えています。それを念頭に置き実践しているつもりではありますが、その難しさを痛感する毎日です。一方国語の授業はより一 層大変です。専門でないとはいえそんな言い訳が通用するはずもなく、今までの勉強不足を呪いながらも教材研究に多くの時間を費やしています。決して楽ではないけれども毎日 が発見の連続で学ぶことも多く、とても楽しい日々を送っています。今まで教育にはあまり興味がなかったものの、いざ実践してみると難しく、しかしとても面白くやりがいのある仕事 だと感じています。
まだはじめたばかりで大変なのはこれからだと思いますが、書の楽しさや奥深さをより多くの生徒に知ってもらうために、日々努力していきたいと思います。

『花園大学国文学論究』 第30号

    (2002(平成14)年12月刊行/頒価 500円)

  • 「雨請の説話について」 宮西 由佳
  • 「谷崎潤一郎 書ききらなかった歴史素材 「吉野葛」を中心に」 福田 博則
  • 「島木健作 「癩」と内務省 第一回文芸懇話会賞の意味」  川畑 和成
  • 「古本説話集下巻 本文と注釈 第四十九話・五十二話」 新間 水緒
  • 愛贈図書目録