日本文学科

『花園大学国文学会会報』 VOL.23(2002(平成14)年 6月23日発行)

編集・発行 花園大学国文学会

「国文学科の現状と課題」 学科主任 曽根 誠一(本学教授)

少子高齢化社会への歩みが顕現化して以来、 大学に進学する受験生にも、 変化が現れてきました。 文学部のような、 本を読んで考え、 深めた考え を正確に表現できる能力を身に付けることを目標とする基礎的学問・学科は、 非実利的に見えて、 敬遠される傾向にあります。
こうした受験生の動向と、 現実社会の急激な変化を視野に入れつつ、 国文学科では本年度より、 近・現代文学研究を拡大・充実させるために、 「現代 文化コース」 を設置しました。 この結果、 「国文学 (古典) コース」 「現代文化コース」 「書道コース」 の3コース制となり、 学びたいことが集中的に学べ る態勢が整うことになりました。
この再編に伴い、 新設・現代文化コースの客員教授として夏目房之介先生 (マンガ・コラムニスト)、 書道コース充実のための客員教授として日比野 光鳳先生 (かな担当) という、 斯界の大家を新たにお迎えしました。 ご多忙ですので、 集中講義 (前・後期) となりますが、 ご期待いただきたいと思いま す。
尚、 夏目先生には、 7月31日 (水) 午後1時から、 公開講演会 (入場無料) をしていただきますので、 卒業生の皆さんも、 是非お出かけください。 お待 ちしております。
さて、 国文学科の定員は、 臨時定員増時の150名を上限にして、 今年は、 定員90名 (元来の100名を10名削減) に臨定20名 (毎年10名削減中) で110名。 2年後には、 定員の90名体制となります。 このことは、 教育面では、 少人数教育ができる長所となる一方、 学科運営の面では、 予算規模の縮小を招く ことになります。
つきましては、 学科の今後のあり方の再検討と併せて、 事業と支出も再検討しなければならない時期に来ていることをご報告して、 卒業生の皆様に対する、 今後の新たな提案に、 ご理解とご協力をお願いする次第です。

「現代文化コースが発足しました」 浅子 逸男(本学教授)

今日私たちを取り巻く社会状況は、多様化すると同時に複合化しています。そういう時代の流れのなかで文化事業を読み解こうとするとき、表層にあら われるもっとも移ろいやすい現象を見逃すわけにはいきません。こうした流動的な表層文化を分析研究するために、国文学科では、本年度から現代文 化コースを設置しました。いままで国文学コースで担当していた近代文学研究は、さらにマンガ、映画映像、現代娯楽小説、ジャーナリズムといった現在の私たちを取り巻くさまざまな文化事業を対象とすることで、大きく幅を広げることになりました。今年度は発足したばかりなので、1回生向けの科目 だけですが、2年後には、マンガ論や映像論でのゼミが開講されることになります。
変容するからこそ表層文化なので、このコースは変容する文化につねに即応させていくことを眼目にしています。かつて「学際」という言葉が流行した ことがありましたが、けっきょく閉鎖的な大学システムを乗り越えるまでにはいたりませんでした。現在、誰もが専門性に閉ざされたままの学問には我慢 していません。個々それぞれの分野を越境し、周縁のまだ学問として確立されていない領域を呑み込むような授業の体系を提供する予定です。

「初心者の 弁」 夏目 房之介(本学教授)

学生だった頃の私が、 もし国文学科で特別講義とはいえ、 人を教えることになったなんて知ったら一体何ていうだろう?
30年前、 私は歴史学科の学生で、 おまけに中国近代史という、 思い切りマイナーなとこで学んでいた。 中国史なんて知らない癖に、 ただ思いつきで選 んだのだから、 ひでぇものだ。 が、 優秀な先生が多く、 何と、 私は生まれて初めて 「勉強って面白ぇなー」 などと思いつつ卒業論文を用意していた。
それだけに学問つーものの大変さもわかってきて、 私がやっていける世界じゃないともと思った。 結果的にせよ人を教える立場になんてなったら、 学生に迷惑なだけだ。 人を教えられるような人間じゃなかったからだ。
そんなワケで、 つい最近まで教壇に立とうなんて気はまるきりなかった。 信じられないほど安い講師の話を何度か断ったこともある。 現在の自分の経済状態を大きく割りこむのは 「仕事」 として考えられないし、 それはこの社会でまっとうな考えだと私は思うからだ。
ずっと在野でやってきたので、 いかに面白く書くか、 限られた字数、 紙面、 条件の中でどれだけ自分のベクトルを生かせるか、 そういう競争と工夫と修練をしてきた。 楽ではないが、 自分の責任は自分で取れる自由業という居場所は好きだし、 合っていると思う。
が、 90年代以後マンガ研究の世界にのめりこみ、 大学で講演もし、 様々な研究者と交流するうち、 マンガ研究の課題も、 今までの在野の範囲ではま かないきれない時代になっていると知ることになった。
同時に、 理系以外の大学や学術的世界も、 外に開かざるをえないところにきているようだ。 これが時代と個人の共振って奴かな。
ともあれ、 一つの試行として今年から講義を受け持つ。 大学時代よりは自分にも蓄積にも自信があるが、 「学生を教える」 という未経験の部分は手探 りで始めることになるだろう。 学生諸君、 お手やわらかに。

「メイド・イン・京都」 日比野 光鳳 (本学教授)

わたくしたちが使う日本語の文字は 「漢字かな交じり文」 といわれています。 当たり前のことと思えますが、 漢字とはいうまでもなく中国のもの。 かな とは、 これまた、 いうまでもなく日本のもの。 いわば、 日本語の文字はふたつの文化圏の文字が合体しているものということが出来ます。
日本はその昔、 文化的に中国の植民地的であったことは否定できません。 まだ、 日本に文明と呼べるものが存在しないうちから、 さまざまな高度な 文物がこの辺境の島国にもたらされました。 文学を含め、 多くの日本文化が中国にオリジナルを持つことはよく知られています。 そして、 文字もまた、 その一つなのです。
いわば、 わたくしたちの、 この日本の文字を見るだけで、 日本文化が紛れもなく東アジアの一員であり、 ここ数十年でさまざまなことが、 かなり欧米 化したとはいえ、 わたくしの暮らしのベースには依然としてアジアの感触が多く残っていることを再認識させられます。 このことは、 今後日本がさらなる グローバルな存在になっていく上で、 忘れてはならないことといえましょう。
さて、 「かな」 文字が日本生まれであることは誰もが知るところですが、 もっとも限定的にいえば、 ひらがなは京都生まれといえます。 それも、 現在の京都市上京区・中京区を中心に、 本学のこの地をも含めた区域にて、 およそ千年前に、 かな文字は完成されました。 中国の漢字がベースになって はいますが、 時間をかけて、 わたくしたちの祖先がこれこそが美しいと思える形で作られたかな文字。 これが 「メイド・イン・京都」 であることは、 この京 都で学ぶ人々すべてが忘れずにいたいものと思います。

「現代漫遊考」 旭堂 南海 (本学非常勤講師)

上方の講談師が明治時代に作り上げた名作?に『水戸黄門漫遊記』 がある。 助さんと格さんを従えて諸国を漫遊する例のやつだ。 テレビでもお馴染みだろう。 (この頃はめっきり評判を聞かなくなったが) 「控えっ、 控えっ、 この紋どころが目に入らぬかっ」 と 「印籠」 を出して幕になるのだが、 講談では流石に 「印籠」 までは考えつかず、 「水隠梅里」 という黄門さんの俳号に諸方に書き記し、 大名に感づかせるというやり方をとっていた。
それはさておき、 先日、 花園の学生さん達に 「漫遊をしてもらうならば誰が良い?」 とアンケートをとった処、 上位3人は 「小泉首相」 「田中真紀子」 「鈴木宗男」 の政治家だった。 「小泉」 と 「田中」 は単身で漫遊をし、 前者は 「評判倒れで御免ね」 と謝罪してまわり、 後者は 「永田町の秘密を教えてあげる」 とネタばらしの旅をするという。 「鈴木宗男」 には 「秘書」 と 「外務省高官」 のお供が付く。 学生さんも捨てたもんじゃない。 歴史上の人物としては 「源義経」 「坂本龍馬」 「真田幸村 (十勇士)」 などが挙げられていた。 彼らは既に講談で100年も以前から漫遊したりしているのだが… 「歴史」 という縛りの中で考えると如何にヒーローが少ないかが良く解る。
以前、 老人大学で同様の質問をした時には、 半数以上の答えが 「自分」 だった。 「私を漫遊させよ、 諸悪を懲らしめてやる」 と随分鼻息が荒く、 流石に驚いたが、 人生の先輩方は余程腹に据えかねているモノがあり、 また如何に他人がアテにならなぬかも知り抜いた上での答えであると推理し頭 が下がった。
200以上の中から私が独断で選んだ学生さんの秀逸をご紹介しよう。 テレビ司会者の 「みのもんた」 を漫遊させるというのだ。 地方を巡って、 悩める 主婦を見つけては 「奥さんどうしました?」 と声をかけ、 共に悩む。 また、 潰れそうな店へ入っては 「こんな事じゃダメだよっ、 修行しなおそうよっ」 と 店主に檄を飛ばす…題して 「おもいっきり愛の貧乏脱出漫遊記」 …パクリだ…。

「ふるさと」 宮原 千鶴子(1976年度卒)

若葉をわたる風がみずみずしく、 小鳥の囀りも賑やかな季節となりました。 大学も授業がはじまり活気に満ちていることでしょう。
1973年に私は、 42歳で国文科に入学を許可され、 1977年に土岐武治先生に 『貫之集』 の卒論指導を受けて卒業させていただきました。
在学中は、 土岐先生に源氏物語を中心とする中古文学と文法、 古代を宮岡先生、 上田秋成の文学を鷲山先生、 芦谷先生には国木田独歩を通して東洋と西洋の文学と思想を学び、 中島先生に書のご指導を受け、 仏教や中国文学など諸先生方に限りない薫陶を賜わり、 同級生、 先輩、 後輩にも 恵まれ、 年をわすれて学生生活を楽しませていただきました。
今年は土岐先生没後14年めになります。 昨年12月に先生の奥様が、 先生が収集された貴重な和書を大学に寄贈され、 曽根先生はじめ国文科の 先生方のご尽力で、 「土岐武治文庫」 として国文科で管理されています。 写本の中には先生ご自身で書写されたものもありなつかしく拝見させていた だきました。 伝本の本質的な価値を、 伝来史的事情や本文の読者に与える満足感ではなく、 それらの写本が原型に対して如何なる位置にあるか、 所謂、 家系表の上の地位によって決められた先生の姿勢が伝わり、 襟を正さずにはいられません。 これらの書物は、 今後古典文学を学ぶ人達にと って重要な文献となることでしょう。
得難い師や友人との出会い、 在学中のさまざまな出会いが、 すでに70歳を超える私の生きる支えとなっています。
卒業時に山田無文老師に参禅させていただきました時の 「生まれはどこじゃ」 の問いに今ならお答え出来るように思います。

人はいさ心も知らずふる郷は花ぞむかしのかにゝほひける 貫之

「「国語学」 が与えてくれたもの」 藤澤 知佳(1999年度卒)

花園大学を卒業して早くも2年が経過しました。 めまぐるしく、 そして忙しく日々を送っていますが、 大学で学んだ4年間のことは鮮烈に頭に焼き付い ています。 私の4年間は 「国語学との出会い」 を抜きには語れません。 大袈裟と思われるほど、 私は国語学に惹かれてしまったのです。
私が文学部を志した理由は単純です。 それまでの学校教育においての 「国語」 が好きだったから、 そしてその延長として国語の教員になりたかった から、 その二つです。 大学で初めて出会った好きな国語に 「学」 がついた学問、 それはそれまで描いていた国語のイメージとはかけ離れていました。 ─ 国語学の 「国語」 は 「日本語」 ─ 日常、 何気なく話している言葉の一つ一つ (五十音までにも) に歴史があることを学び、 その奥深さにはまってしま いました。 国語学の 「霊」 にとりつかれている、 と言っていいほど 「国語学」 と名のつく講義は全て受講し、 大教室では常に前列をキープするといった 徹底ぶりでした。
3・4回生のゼミも迷うことなく国語学へ。 そのゼミも大学院生や先輩方が多く訪れてくれるアットホームな雰囲気が漂い、 卒論を書く上での必要なこ とをアドバイスして頂けるという恵まれた環境でした。
そして現在、 志していた教員への道は諦めてしまいましたが、 相変わらず国語学の 「霊」 にはとりつかれ続けているようです。 主に卒業アルバムを 手がける印刷会社に勤める日々、 伝票入力などの業務の際には多くの学校名を目にします。 公立学校の場合、 そのほとんどが地名に由来している ことが多く、 全国各地の難読地名、 おもしろ地名に出会います。 そんな時、 「なぜこんな地名に…」 「きっと昔こんなことが…」 と国語学の 「霊」 と心を 遊ばせています。
─ 言葉は生き物である ─ 国語学はそんな感動と学ぶ意欲を私に与えてくれました。 そして、 今でも絶えることなく続いている当時のゼミ仲間との出会 いもかけがえのないものになっています。 多くのものを与えてくれた国語学の 「霊」 との関係はこれからも続けていくだろう、 と私は確信しています。

『花園大学国文学論究』 第29号

    (2001(平成13)年12月刊行)

  • 「大君物語序論 薫の行動規範と匂宮・橋姫巻の対応関係について」 曽根 誠一
  • 「谷崎潤一郎 母恋ものに見られる父親の存在」 福田 博則
  • 「 『海人手子良集』 題詠・補遺歌 試注」 曽根 誠一
  • 「古本説話集下巻 本文と注釈 (抄)」 新間 水緒・宮西 由佳
  • 受贈図書目録