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花園大学人権週間「知ることから」

第27回花園大学人権週間 講演1


金田諦應さん(曹洞宗通大寺住職)

◆プロフィール◆
駒澤大学人文科学研究科仏教学専攻修了
曹洞宗通大寺住職
傾聴移動喫茶「Cafe de Monku」マスター
仙台「心の相談室」理事
自殺防止ネットワーク「風」会員

※※※※※

「言いたいこと、聞いてもらいたいこと カフェデモンクの傾聴活動」

中尾良信

 この原稿提出の直前、九月十六日の早朝、テレビには信じがたい光景が映し出されていました。台風十八号に伴う豪雨によって保津川の水量が激増し、嵐山渡月橋が濁流に呑み込まれそうになっており、土産物店が建ち並ぶ天龍寺前まで冠水していました。十六日午後にはようやく水が引きはじめましたが、付近一帯は瓦礫と泥に覆われて、おそらく自分がそこに立っていたら、茫然自失するしかなかったと思われるような惨状でした。その光景が何度も何度もテレビで放映される中で、画面に一枚のポスターが見え、そこには「ボランティアよろしくお願いします」という文字が書かれていたのです。
 たしかに、東日本大震災をはじめとする日本各地の被災地において、多くのボランティアが復興復旧の活動を支えています。ある意味ではそうしたことが常識化してきたともいえますが、日本における「ボランティア元年」ともいわれたのが、一九九五年の阪神淡路大震災でした。現役の学生諸君にとっては生まれた頃の話ですが、私自身にとっては昨日のことのように実感が残っています。東日本大震災との大きな違いは、もちろん東電福島第一原発の事故もそうですが、なによりも津波がなかったという点です。私が住職しているお寺は、神戸市の西隣で比較的被害がなく、かなり早い時期におにぎりなどを差し入れることができました。また私自身も近隣寺院の住職とともに、避難施設となった小学校などの炊き出し活動に参加しましたが、いろいろと考えさせられることがありました。一つはその小学校で、我々が食事を作る準備をしていると、被災している人たちの中には一緒に手伝ってくれる人もいましたが、なかには新聞を見ながら我々が食事を運ぶのを待っている人もあったということです。もう一つは、市の職員から聞いた話ですが、ボランティアに参加した人に仕事を依頼したところ、その人は「自分はそんなつまらない仕事をするためにきたのではない」と怒り出したという話です。
 いまから思えば、おそらくはボランティアに行く方も受け入れる方も、双方がボランティア慣れしていなかったということではないでしょうか。日本中から多くのボランティアが集まってきたものの、行政にもそれを系統的に受け入れ配置するノウハウがなく、参加する側も熱意のあまり、いま何が必要かを理解したり、被災者に寄り添うというような余裕がなかったように思います。その後、不幸なことではありますが多くの災害が日本各地を襲う度に、さまざまな形でのボランティア活動が行われ、いわばその過程で成熟してきた部分も大きいのではないでしょうか。たとえば、かつては取るものも取りあえず被災地に飛び込んでいったのが、現在ではボランティアが入ることが効果的な時期を見るとか、被災地に負担をかけずに自分たちの食事や生活の準備をしていくとか、十分に事前の準備をすることが当然となってきました。それとともに、どのようなボランティア活動が必要かも、意識されるようになってきました。たとえば急性期、つまり被災直後といえる時期には、まずは救助と医療が不可欠であり、これについては高い専門性が求められます。次に避難生活が続くような場合には、生活支援と復旧のための片付け作業などが必要となり、一般のボランティアはこの段階で力を発揮するといえます。そうしたある意味での役割分担が、それなりになされるようになってきて、東日本大震災でも多くのボランティアが被災地に入りました。
 阪神淡路大震災のときにも、多くの僧侶やキリスト教関係者がボランティアに参加しました。亡くなられた方を追悼供養するための法要も、ときには超宗派で行われました。その後の災害における被災地にも、常に何人かの宗教者が入っていたと思いますし、事実、本学の学生や教職員が参加したことも少なくありませんでした。しかし、東日本大震災から二年半を経過する中、今回ほど被災者の心のケアが強調されたことはなかったように思います。それはやはり地震に伴う津波によって、多くの命を含む生活そのものが眼の前で流されてしまったというきわめて大きな喪失感が、残された人に癒やしがたい傷を負わせたということではないでしょうか。だからこそ「心のボランティア」というゼッケンをつけて、被災者に寄り添おうという試みがなされたわけですが、わざわざ「心のボランティア」と謳ったことが、かえって被災者には押しつけがましく感じられたようです。結局のところ、どのような形で被災者に寄り添うということに、正解というものはないのであり、さまざまな立場の人が、自分ができる形で寄り添っていくしかないのでしょうし、その中で、宗教者には何ができるのかということも、見えてくるのではないでしょうか。
 今回お招きした金田諦應さんは、宮城県の曹洞宗通大寺御住職で、私にとっては駒澤大学の後輩に当たります。金田さんは被災地でさまざまな救援活動を行っておられますが、その中でもユニークなのは「移動喫茶 カフェ・デ・モンク」です。モンクは僧侶のことですが、「いろいろと文句を言い合う」にも通じていて、要するにお茶を飲みながら何かと言いたいことを言い合おうということです。そうすることによって、物質的な支援とは別の、被災者の心のストレスを軽減していこうとされたのです。金田さんの活動は次第に注目され、東北大学大学院の実践宗教学寄附講座にも協力されています。二年半以上経過した現在でも、決して復興が順調ではありませんが、それが私たちの意識にどれほどあるかといえば、ややもすれば忘れがちなのは否定できません。そんな中で安倍総理大臣は、オリンピック東京招致を決めたIOC委員会で、「フクシマは完全にコントロールしているから東京は安全だ」と世界に大見得を切りましたが、それを聴いた被災地の人たちは、おそらく切り捨てられたような感情を抱いたのではないかと察します。復興予算が目的外に使用されている一方で、仮設住宅の建設がままならないなど遅々として進まないことを、現地からのレポートとしてお話し戴こうと思っています。その中で宗教者としてどのような支援活動が可能なのか、被災者に寄り添うとはどういうことかなどを考えるきっかけを、本学の学生諸君にもつかんでほしいと願っています。

(なかお・りょうしん=人権研センター所長・文学部教授)

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