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「三代目 雪江せっこうの松」由来

三代目雪江松
三代目雪江松

 

無聖館前の中庭に一本の松が植えてあります。それは本学の開学120周年の年、妙心寺に伝わる雪江松より根分けして植樹したと伝えられています。この雪江松については古い歴史と深い意味があります。『臨済録』の「行録あんろく」に、この因縁話が出ています。
師、松をうる次いで、黄檗おうばく問う、「深山裏に許多そこばくを栽えて、什麼なにをかん。」師云く、「一つには、山門のために境致とし、二つには、後人の与に標榜ひょうぼうと作さん。」おわって钁頭かくとうって地を打つこと三下。
-あるとき、臨済禅師は一生懸命松を栽えています。そこへ、のこのことやって来た師の黄檗禅師が、「どうした!こんな深山幽谷の松や杉が一杯繁っている所で、わざわざ松の苗を栽えてどうするのか」と質します。臨済、答えます。「一つには山門の境地とする、すなわち将来この木がどんどん大きくなって、いよいよ修行道場にふさわしい幽邃な境地とするために。二つには後人の標榜とする、すなわち、二百年、三百年後、大樹となった松が人々の目印しとなるために」と言い終わって、その鍬を持って地を打すこと三下-トン、トン、トンと三回大地を叩きます-
この「臨済栽松」の因縁を踏まえて妙心寺の境内には、法の永遠を願って松が沢山あります。しかも南門を入って三門、仏殿、法堂はっとう、大方丈と続く伽藍の周囲には、見事に松の木以外の樹木は一本もありません。
さて、無相大師によって建武4年(1337)に妙心寺が建立されます。二世授翁宗弼じゅおう そうひつ、三世無因宗因むいん そういん……そして八世義天玄紹ぎてん げんしょう禅師と苦難の時代が続きます。応仁元年(1467)に応仁の乱が起こりますが、都が焼け野原となったあと、妙心寺住持雪江宗深隆せっこう そうしん禅師によって妙心寺発展の基礎が作られました。その門下に、景川宗隆けいせん そうりゅう/龍泉りょうせん派、悟渓宗頓ごけい そうとん/東海派、特芳禅傑とくほう ぜんけつ/霊雲派、東陽英朝とうよう えいちょう/聖沢しょうたく派の四哲があり、この四派がのちに発展し、開山の関山かんざん一派の禅が諸国へ伝播され、遠く琉球までもひろまっていったのです。雪江禅師は仏法の興隆を念じて仏殿東、経蔵の西北に一本の松を植樹します。
以来「雪江松」として大切に保護され、五百年余りも「松樹しょうじゅ千年のみどり」をたたえてきた名木でした。周囲十六尺、高さ十三間、幹根蟠居し枝葉繁茂した見事な古松だったと言い伝えられています。しかし昭和に入り少しずつ弱り、昭和4年についに枯死するにいたるのです。その顛末が「雪江禅師四百五十年遠諱おんき大法会記録」に述べられています。
亭々ていてい中天をして五百年の緑をたたへて来たが、大正の末年に至ってとみにその勢いを失ひ、上半身が次第に枯れ初め、昭和3年頃、中半身が又枯れ出し、当局苦心の手当も甲斐なく同4年には次第に最下部に及び、所々青葉が点綴てんてつするのみで殆ど枯木同然となり、同年12月21日前管長玲竹軒老大師導師の下に冬至祝聖後、本所執事並一山総出頭、大悲咒・消災咒を諷経ふぎんして伐採した。
惜雪江松(雪江の松を惜しむ)
十尺青松元寸岑(十尺の青松、元と寸岑) 
多年培養霊根深(多年培養して、霊根深し)
雪霜五百樹齢尽(雪霜五百、樹齢尽くるも) 
老祖宗風無古今(老祖の宗風、古今無し)
  喝
その後、山内の衡梅院様等で実生みしょうの松が成長します。時代を経て、開学120周年の折、三代目の孫松が根分けして本学に植樹されたのです。それが本学の「三代目雪江松」です。本山の孫松が平成11年に枯死し、今の「雪江松」は微妙殿落慶の折、三笠宮殿下お手植えの曽孫の松です。因みに三門と仏殿との間にある四本の松は「四派の松」といわれ、四本庵(龍泉庵・東海庵・霊雲院・聖沢院)を意味しています。この松は代々一株から二本の幹がのびている樹が植えられ今日を迎えています。

(細川 景一)

 

初代雪江松 大正13年初秋

初代雪江松 大正13年初秋